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世界人と成るべし

海田町(カイタチョウ)名誉町民 織田 幹雄(オダ ミキオ)氏をたどる

第3回 父・幹雄(ミキオ)

次男 織田 和雄(オダ カズオ)さん

私は昭和10年、父が30歳の時に生まれた次男で、昭和13年7月5日の神戸六甲山からの鉄砲水の水害から九死に一生を経て現在に至っている次第です。よく、子は親の背中を見て育つと言われます。しかし私に関して言えば親の背中の真ん中に小指程のほくろがあったのを覚えていますが、父の人間としての生き方を見て育った訳ではありません。昭和23年に父が私に作ってくれた花瓶には「先頭を切る者の偉大さを思え」と記されていました。決して心掛けた訳ではありませんが父に顔向けできるとしたら、会社生活の中で大型外航船の燃料油販売において日本の石油会社、他商社との競走に勝ち、日本一の販売量を誇った事でしょうか。今一つ(イマヒトツ)は、ある日鞄に衣類を詰め、テニスラケットを持って出掛けようとした時、父が「どこへ行くのだ。」と尋ねました。「全日本ベテランテニス選手権出場で名古屋に行くところ」と答えると、「ほうそれは大したもの」と学生時代テニス部でもなかった私をほめてくれたそれ位(クライ)でしょう。

父は朝日新聞の記者でしたが、各新聞社の運動記者との交流が盛んでわが家に遊びに集まられ談論風発。共同通信の管沼記者の弟さんが俳優・森繁 久彌(モリシゲ ヒサヤ)さんで、よく3人でどこかへ飲みに出かけたりもしていました。一方各スポーツ界のお歴々とも仲が良く、夫婦揃って東京オリンピックでメダルを獲得した体操の小野夫妻、ロサンゼルスオリンピック金メダリストの水泳の清川さんなどが遊びに来られ(コラレ)、スポーツ談義をやっていました。そのおかげで門前の小僧習わぬ経(キョウ)を読むで、頭の重さの影響、引力に対していかにバランスをとるかの重要性などを聞きおよび、今テニスを教える時に役立っている次第です。

平成8年9月、北京市と東京都のベテランテニス親善大会が北京体育大学のテニスコートで開催されましたが、その時の夜の招待宴で北京側団長の北京体育大学副学長が私に「織田 幹雄(オダ ミキオ)という名前を知っているが、あなたは何か関係あるのか」と尋ねられ、「次男です」と答えたところ大変に喜ばれました。「戦前東洋人がイエローと呼ばれ馬鹿にされていた時代にオリンピックで優勝されたことは東洋人の誇りと思う。息子に会えて嬉しい」と言って下さったのはとても嬉しく、帰国後父に早速報告したことなどが貴重な思い出となっております。