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世界人と成るべし

海田町(カイタチョウ)名誉町民 織田 幹雄(オダ ミキオ)氏をたどる

第4回 運命の出会い

1928年8月2日 第9回オリンピックアムステルダム大会陸上競技三段跳で、15メートル21センチメートルを跳んで優勝し、日本人最初の金メダルを獲得した海田町(カイタチョウ)出身の織田 幹雄(オダ ミキオ)さん。

織田 幹雄(オダ ミキオ)さんがこの栄誉を手にするまでに、節目、節目で自己を変えるきっかけとなる出会いがありました。

第1回から第3回では、織田(オダ)さんのご子息、正雄(マサオ)さん、和雄(カズオ)さんに父・織田 幹雄(オダ ミキオ)さんについて語っていただきましたが、今回は、陸上競技に出会ってから広島県立第一中学校(※現在の広島国泰寺高等学校)徒歩部(※当時は陸上部と言っていませんでした。)に入部するまでの16年間の軌跡を本人の視点から辿ります。

父親との出会い

織田(オダ)さんは父親からたくさんの影響を受けました。織田(オダ)さんの父親は、織田(オダ)さんが小学生の時代、庭の掃除やまき割と風呂焚きの役目を織田(オダ)さんに与えました。どうやったらこの仕事を早く片付けることができるか、どこにナタを振りおろせばまきがきれいに割れるかといろいろ考えました。この時の経験が陸上競技に役立っており、晩年の講演会でも、「どんなことでも工夫することが出来たのはこの事があったからだ。」と言っておられます。

小学5年生担任檜垣(ヒガキ)先生との出会い

この出会いが無ければ広島県立第一中学校で陸上競技に熱中する織田(オダ)少年はありませんでした。織田(オダ)さんに上級学校に行くことをすすめた檜垣(ヒガキ)先生。「家は貧乏だし、子どもみんなはとても学校にやれない」と考えていた織田(オダ)さんの父親を口説きおとし、織田(オダ)さんの中学進学が実現したのでした。織田(オダ)さんは著書などに、このことを数多く綴っておられます。

広島県立第一中学校体育教師 宇佐美(ウサミ)先生との出会い

十種競技選手 野口 源三郎(ノグチ ゲンザブロウ)さん(第7回オリンピックアントワープ大会出場)の講習会が行われ、この講習会への参加を推薦したのが宇佐美(ウサミ)先生でした。講習会最終日に行われた走り高跳びの記録会で、織田(オダ)さんは、155センチメートルという参加者中最も低い身長ながら、この時跳んだバーの高さは157センチメートル。講師 野口 源三郎(ノグチ ゲンザブロウ)さんから「よくバネがきいているね。小さいのによく跳ぶ。練習すれば、日本代表も夢じゃないよ」と言われ、この言葉が彼を陸上競技の道へ進ませるきっかけになり、金メダル獲得への第一歩となったのでした。

こうして翌年の4月、広島県立第一中学校徒歩部「織田 幹雄(オダ ミキオ)」が誕生したのでした。