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世界人と成るべし

海田町(カイタチョウ)名誉町民 織田 幹雄(オダ ミキオ)氏をたどる

第5回 「かいたのみっちゃん」から「世界の織田 幹雄(オダ ミキオ)」へ

海田町(カイタチョウ)に生まれ、「みっちゃん」と呼ばれていた織田 幹雄(オダ ミキオ)さん。23歳の時、日本人初のオリンピック金メダリストとなりました。

今回は、「かいたのみっちゃん」から「世界の織田 幹雄(オダ ミキオ)」になるまでを織田(オダ)さんに関する書籍や織田(オダ)さんの遺した日記などから辿ります。

広島県立第一中学校徒歩部全国優勝

1921年、織田(オダ)さんが中学4年生のとき、新設の広島県立第一中学校(※現在の広島国泰寺高等学校)徒歩部(※当時は陸上競技部と言っていませんでした。)に入部しました。しかし、徒歩部には指導者がおらず、陸上講習会のときの記録ノートを頼りに練習していました。

当時の広島県立第一中学校では、全国大会に参加するには優勝を争っている部という条件があり、対外試合の遠征を許されているのはサッカー部だけでした。そんな中、織田(オダ)さんは、神戸で開催される第5回全国中等学校競技会に参加したいと校長先生に直談判。「出場したらきっと優勝してみせる」と言ったところ、校長先生が身銭をきって旅費を出され、遠征を許可しました。そして織田(オダ)さんは、見事総合優勝という結果を残しました。

日本記録と日本代表

走り高跳びで陸上競技を始めた織田(オダ)さん。さまざまな種目で日本新記録更新を重ねましたが、最初の公認日本記録も走り高跳びでした。1922年の第6回極東選手権競技大会の予選で1メートル73センチメートルの日本記録を樹立。念願の日本代表となって、1923年の本選に出場しました。陸上競技を始めたとき、「日本代表のユニフォームを着るんだ」と誓った織田(オダ)さんにとって、このときは日本記録を出したとき以上の喜びでした。陸上競技に出会って2年と半年のことでした。

第8回オリンピックパリ大会

陸上競技に出会ってから約3年半で第8回オリンピックパリ大会の代表選手となった織田(オダ)さん。しかし、パリに到着して情報を収集してみると、三段跳びでは15メートルを超える選手もいました。「14メートルそこそこの自分など相手にならない。この際、練習方法やフォームを勉強しよう」と思い、織田(オダ)さんは外国の選手と一緒に練習して観察しました。その結果、三段跳びで14メートル35センチメートルの日本記録を樹立し第6位に入賞しました。

第9回オリンピックアムステルダム大会

「私にとって最良の日となった」と残している1928年8月2日。それまでに行われた走り高跳び、走り幅跳びでは実力を発揮できなかった織田(オダ)さんは、開会式の後に書いた日記を読み返し、「全力を尽くすのみ」と新たな誓いを立て、三段跳びに臨みました。そして、15メートル21センチメートルを跳んで見事優勝しました。「かいたのみっちゃん」から「世界の織田 幹雄(オダ ミキオ)」になった瞬間でした。