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世界人と成るべし

海田町(カイタチョウ)名誉町民 織田 幹雄(オダ ミキオ)氏をたどる

第6回 スポーツは、楽しいけれども、一方で勝つことは、記録を作る以上に難しい。

織田(オダ)さんの選手生活12年間の後半生(コウハンセイ)は、けがとの戦いでした。しかし織田(オダ)さんは、けがが記録を伸ばすとも言っていました。今回はオリンピックアムステルダム大会後から引退までを辿ります。

早稲田大学競走部のキャプテンとなる

金メダルを獲得したオリンピックアムステルダム大会を区切りに部を辞めるつもりだった織田(オダ)さんでしたが、キャプテンとなったので、辞めることが出来ませんでした。1930年にドイツで行なわれた第4回国際学生大会に幹事として参加しました。この欧州遠征が織田(オダ)さんを2つ目の金メダルに向かわせました。

社会人選手 織田 幹雄(オダ ミキオ)誕生

早稲田大学卒業後、1931年に朝日新聞大阪本社に入社しました。この年は練習を楽しみつつ、三段跳びに精進し、世界記録を突破するために、ホップ(1歩目)ステップ(2歩目)ジャンプ(3歩目)の跳躍距離の比率を6対4対5とし、フォームの完成に力を注ぎました。

世界新記録の偉業も日本人第1号

世界記録更新は、1931年10月27日に開催された神宮体育大会でした。織田(オダ)さんはこの時、三段跳びで15メートル58センチメートルの世界新記録を跳びました。この時の比率がホップ6メートル34センチメートル、ステップ4メートル7センチメートル、ジャンプ5メートル17センチメートルでした。オリンピックでの金メダル獲得だけでなく、世界記録の日本人第1号も織田(オダ)さんとなったのでした。

オリンピックロサンゼルス大会は、コーチ兼選手

1932年の3月に台湾に指導と練習を兼ねて出かけた時、けがをしてしまい、回復が思わしくなかった織田(オダ)さんは、同年のオリンピックロサンゼルス大会出場を諦めていましたが、コーチを兼ね主将として参加することとなりました。大会当日まで回復せず、予選落ちとなったものの、親友の南部(ナンブ)さんが15メートル72センチメートルの世界新記録を跳んで優勝し、三段跳びで日本が2連勝したのでした。

オリンピックロサンゼルス大会後引退

1932年9月29日の日記から

「「オリンピックに以って(モッテ)自分の過去は清算された。新しい第一歩を踏み出す。」

九月二九日湯河原にて」

このように書き、織田(オダ)さんは12年間の選手生活に幕を閉じました。