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世界人と成るべし

海田町(カイタチョウ)名誉町民 織田 幹雄(オダ ミキオ)氏をたどる

第8回 戦後のスポーツ復興

織田 幹雄(オダ ミキオ)さんは、1945年(昭和20年)12月9日に復活した日本陸上競技連盟の常務理事として戦後のスポーツ復興に努めました。

今回は戦後のスポーツ復興に織田(オダ)さんがどのように寄与したかを追っていきます。

戦後のスポーツ関係者との再会と支援

1924年の第8回オリンピックパリ大会の時、アメリカの槍投げの選手だったウィリアム・ニューフェルドと出会った織田(オダ)さん。1928年の第9回オリンピックアムステルダム大会の時に、彼に紹介してもらったのが、アメリカ選手団団長を務めていたダグラス・マッカーサーでした。

戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)最高司令官として来日。皇太子明仁殿下との会見において、スポーツのこと、オリンピックアムステルダム大会において団長を務めたこと、そしてその大会で日本人の織田(オダ)さんが優勝したことを話すと、皇太子殿下は、「私の同級生の織田 正雄(オダ マサオ)は、織田 幹雄(オダ ミキオ)さんの息子です。」と答えました。この会見の結果、GHQ民間情報教育局(CIE)の体育担当官として来日したウィリアム・ニューフェルドに「日本国民に元気がないので、アメリカのスポーツ事情を織田 幹雄(オダ ミキオ)に見に行かせるように」と命じ、織田(オダ)さんのアメリカ視察が実現しました。織田(オダ)さんが、渡米して世界のスポーツ事情を視察したことは、スポーツが繋げた人との縁によるものでした。

実現した欧米視察

アメリカ視察は、ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨークの予定でしたが、アメリカの陸上代表のチームが北欧へ遠征するため、北欧に渡ることになりました。北欧は2週間の予定で、スウェーデン・ノルウェー・フィンランドを訪れました。スウェーデンでは、言葉の違いに不自由しながらも、新しい練習法も見学したようです。

この欧米視察で織田(オダ)さんは、戦前の日本のスポーツは十分に科学的な研究が行なわれていなかったので、身体の動きやその他の面で大きな間違いがあったこと、色々な面で勉強不足だったことを感じました。また、この視察で、アメリカの長距離のトップ選手から、今 世界でスピードを切らないで前進する走り方である「ピッチを速めたピッチ走法(ソウホウ)」が行なわれていることを聞きました。織田(オダ)さんは帰国後、ピッチ走法(ソウホウ)の説明をし、普及を図りました。日本の選手が実際に取り入れるのには少し時間がかかりましたが、織田(オダ)さんの普及活動により徐々に広まっていきました。