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世界人と成るべし

海田町(カイタチョウ)名誉町民 織田 幹雄(オダ ミキオ)氏をたどる

織田 幹雄(オダ ミキオ)さん生誕110周年を迎えた今年、広報かいたでは今月号から織田 幹雄(オダ ミキオ)さんの特集を開始します。

第1回 父・織田 幹雄(オダ ミキオ)を語る(前編)

長男 織田 正雄(オダ マサオ)さん

私が生まれたのは昭和9年、西暦1934年です。織田 幹雄(オダ ミキオ)が日本人としてはじめて金メダルをとったのは1928年。

父がスポーツで活躍した人だと認識したのは私が小学校1年生の頃でした。

父が働く朝日新聞の社内運動会が甲子園のグラウンドであり、親子スプーンレースに出ました。しゃもじにピンポン玉をのせ落とさずに約15メートル走って、父に渡し、折り返し父がゴールまで走るものでした。私だけが途中で玉を落とすことも無く1番に走り、父が引き継いで、1着となりました。その時の見物からの「さすがスポーツマンだ」との声で、私は父がそういう経歴の人であることを認識したのでした。ただこの時のことを生涯忘れないのは、その時私には1着より2着の賞品の方が良く見えて、大変残念だったからなのです。

私が知る父は既に第一線の選手ではありませんでしたが、コーチとして自ら跳んで見せることがあり、そうした際には父の極限までの練習の結果を思わせる無駄の無い身体の動きを目の当たりにするのでした。例えば走り高跳びでは身体とバーの間(アイダ)に隙間がないほどでした。

私が父について述べるとすれば、父は大変な勉強家だったということです。

私の小学校時代は戦争で父との暮らしは3年半でしたが、記憶する限り休日の日の父は机に向かって、本を読むか書き物をしていました。父の死後見つけた膨大な日記は時に1日3冊くらいからなり、専門の陸上競技に関する事、自分の競技についての研究や練習の事、国内外での競技会の記録などを細かく書き遺しています。大学時代には3冊目は簡単ながら英語で書いています。父の本棚には外国語の辞書が並んでいました。陸上競技に関する本がまだ日本には無く、アメリカの本を読んでいた様です。

6月号で「父・織田 幹雄(オダ ミキオ)を語る」の後編を掲載します