大下剛史(オオシタツヨシ)さん
海田町(カイタチョウ)出身/元プロ野球選手、野球解説者
プロフィール
おおした・つよし
1944年11月生まれ、元野球選手。 1967年東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団後、1975年に広島東洋カープへ移籍。一番打者で同年のリーグ初優勝に貢献した。ダイヤモンドグラブ賞やベストナインを獲得、引退後はカープのコーチを務めた。
野山を駆け回った子ども時代 海田町(カイタチョウ)にある野球人生の原点
僕が子どもの頃は遊び道具などなく、そこらじゅうを駆け回り、木を拾ってバットにしてボールを打ち、野球の真似事をして遊んでた。中でも当時の瀬野川は潮が引くと砂浜が現れ、その砂浜で夢中になって木のバットを振り回してた。日浦山(ヒノウラヤマ)にもよく登ったな。とにかく日が暮れるまで走り回ってクタクタになって帰ってた。
実家は新町なので、今でもあのあたりを通ると懐かしい気持ちになる。明顕寺(ミョウケンジ)幼稚園、海田市(カイタシ)小学校、海田中学校と生活のすべてが海田だった。豊かな自然と下町気質の温かい人達に囲まれていたので、海田に生まれて本当に良かったと今でも思う。
強さ、厳しさ、優しさ…人としての在りかたを学んで
人生を導いてくれた恩師の存在
今までの人生を振り返った時、まず浮かんでくるのは中学校の恩師、足立龍夫先生。野球部の顧問兼監督で、野球の技術はもちろんのこと、人としてどう生きるべきか、芯の通った言動から多くの事を学んだ。当時は恐い先生だと思ったけど教わることがたくさんあった。足立先生の教えが今でも心底にある。広商に行けと勧めてくれたのも足立先生で、「行け」と言われたら「はい」しかなかった(笑)
当時の広島商業高校は江波にあり、海田から江波まで約1時間かかる。毎日朝一番のバスに市場へ買い出しに行く人達と一緒に乗り、帰りはいつも最終便。学校では練習漬けの日々、帰ったら泥のように眠る。勉強などする時間はなかった。それでもつらいと思ったことはない。足立先生の「一生懸命やれ」という言葉が常に心の中にあったからだ。
野球を通して、いま伝えたいこと
広島商業高校から駒澤大学へ進学。練習はきつかったけれど、お盆や正月に実家へ帰省すると、懐かしいまちの様子にほっとしたよ。プロに入ってからは、常に勝敗や自己鍛錬など、精神的にもすごく鍛えられた。
今年はコロナの影響で全国の試合や練習の中止が相次いで悔しい思いをした子たちも随分いると思う。けれど、ときにはじっと我慢することも大事。その中で自分のできることを見つけて、工夫をし、自己を磨いてほしい。
僕は先生の名前を冠にした「足立杯争奪」中学生軟式野球海田大会の実行委員長を務めていて、15年続いたけど第16回、第17回はコロナの影響で中止になった。今はじっと我慢だね。
スポーツのまちとしての発展を願う
今年5月、ありがたいことに海田町(カイタチョウ)の町民栄誉賞をいただいた。最初に連絡をもらった時は驚いたけど、素直に嬉しかったよ。
この賞は三村敏之(ミムラトシユキ)ももらった栄誉ある賞。三村(ミムラ)も天国で喜んでくれていると思う。
また、海田町(カイタチョウ)は織田幹雄さんという素晴らしいアスリートを輩出したまち。スポーツを通じた交流がもっともっと盛んになり、海田町(カイタチョウ)がさらなる発展を遂げるよう応援しています。
MY Favorite 海田のお気に入り
まちが見渡せる日浦山
幼少期に数え切れないほど登り、遊び場にしていた思い出の多い山。標高約345メートルと初心者でも比較的登りやすく、海田町(カイタチョウ)のシンボルでもあると思う。どんと構える姿に安心感を覚えるし、山から見渡すまちや広島湾に浮かぶ遠くの島々の景色を見るたびに原点を思い出させてくれる。