像高118.5cm、一木彫のこの像は、室町時代の作と伝えられています。江戸時代初~中期に補修が行われた際、全身に麻布が貼られたものと思われます。台座は後補のものです。
時代:室町~戦国時代
地区:日浦山山頂
山頂からは四方が見渡せるため、戦略上の要衝であり、緊急時にはのろしをあげたことから、火村山と呼ばれていたようです。建武5年(1338)、大永7年(1527)には、この山を舞台に合戦が繰り広げられ、建武5年の際は、石見国の南朝勢がこの城に立てこもったといいます。 その後、城主は阿曽沼氏となり、天正15年(1587)の山城廃止令により、城は廃止されました。
(写真=成本方面から山頂をのぞむ)
時代:室町時代
地区:東一丁目
十二神将は薬師如来の眷属で、十二体からなります。本像の像高は36.5cm~42cmで、檜の一木造、室町時代中期の作とされています。
これらの像には、水中あるいは土中に埋まっていた形跡があり、腕や持物は失われています。なお、一体は後補のものであるようです。
時代:中世
地区:寺迫一丁目・浜角
この城は丘陵の尾根先端部に中世につくられた山城です。古文書にその城主を串山肥後守と伝えるのみで、詳しいことはわかっていませんが、おそらく阿曽沼氏の支配下にあったものと推測されます。本丸跡や溜井戸、堀切の跡が現存しています。
(写真=城跡に残る溜井戸)
地区:寺迫二丁目
奈良時代の霊亀元年(715)に出崎森神社が筑前の宗像神社から勧請された際、村人がたいまつをともして船を出迎え、導いたことから始まったと伝えられています。
旧暦8月14日の神事ですが、現在では秋祭りの前夜祭と併せて10月中旬に行われています。
所在地:海田町畝二丁目付近
主幹は地上1.55mで東西の二大支幹に分かれています。幹周は約7m、樹高は約30m以上あり、よく繁茂した大きな樹冠を形成し、一見森のように見え、樹勢は極めて旺盛です。