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文化財(近世)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月20日更新ページ番号:0005852

近世

江戸時代に旧山陽道(西国街道)の宿場町として発展した海田。街道や港など陸海交通の要衝であり、様々な人々や物、文化の往来も盛んでした。

旧千葉家住宅(中店)

広島県指定重要文化財「千葉家書院」・広島県指定名勝「千葉家庭園

外側から見た千葉家住宅 千葉家書院
旧千葉家住宅外観         千葉家書院
千葉家庭園  
千葉家庭園

千葉家は屋号を「神保屋」といい、家業として酒造業を営んでいました。また、代々広島藩の「天下送り役(幕府の書状や荷物を扱うこと)」「宿送り役(広島藩の書状や荷物を扱うこと)」など、宿駅の要職を勤めました。御茶屋(本陣)や脇本陣に準ずる施設として、要人の宿泊にも使用された本住宅は、街道沿いに面して建ち、主屋・角屋・座敷棟及び泉庭により構成されています。中でも,安永三年(1774)に建築された座敷棟は、同時期に建てられた付属建物や泉庭とともに、建築当初の統一感ある接客空間を今に伝えています。

三宅家住宅(稲荷町)

国登録有形文化財(平成29年5月2日登録)

三宅家住宅主屋正面外観

三宅家住宅主屋正面外観

三宅家は屋号を「新宅屋」といい、形式や手法からみて、江戸時代後期に建築されたと推定されています。旧山陽道(西国街道)に北面して店を設けた主屋のほか、敷地背面には河港に面した裏長屋門をつくり、両者をつなぐ敷地内通路の両面には土蔵群を立て並べるなど、海田市の有力商家の屋敷構えとなっています。また、東接する分家棟は、一部が江戸時代末期に本家の店舗棟として建てられたことが分かっています。いずれも、旧千葉家住宅とともに、海田に残る数少ない近世町家遺構であり、街道沿いの歴史的景観をよく伝えています。

加藤缶楽(ふらく)の墓

加藤缶楽(ふらく)の墓

時代:江戸
地区:稲荷町
加藤缶楽(1673-1738)

海田市の人で、名は友益。学芸の振興に熱心だった海田市において、その中心的役割を果たしたのが、加藤家(猫屋)です。中でも、江戸中期、海田市の庄屋であった缶楽は、広島藩儒植田艮背(こんばい)から神儒学を学び、役務のかたわら終生学問にうちこみました。また彼は、飢饉対策として藩主に社倉制度を提言しました。後に藩儒となった缶楽の子十千(友徳)らにより、社倉法は全藩内で実施されています。また、加藤定斎(友諒)、棕盧(景纉)も藩儒として、代々藩士の教育にあたりました。
この飯山(馬背山)には加藤一族の墓があります。

梵鐘(明顕寺)

梵鐘(明顕寺)

時代:江戸時代中期
地区:稲荷町

総高127cm、口径70cmのこの梵鐘は、享保年中(1716~1735)に海田市の嶋屋浄祐、奥田屋善六、金屋源兵衛の三氏によって寄進されたもので、宝暦2年(1752)に再び鋳直されたと、銘文に記載されています。これを制作した鋳物師植木(金屋)源兵衛・新兵衛は、当時一里塚付近に住み、芸州鋳物師筆頭総代で名工と言われた人物です。

越後高田藩士の墓(明顕寺)

越後高田藩士の墓(明顕寺)

時代:江戸時代末期
地区:稲荷町

第二次長州戦争時、慶応元年(1865)12月10日に越後高田藩主榊原政敬軍が、海田市に宿陣し、同2年6月14日に広島藩と長州藩の藩境にある小瀬川の戦いに出陣し、大敗を喫した際、亡くなった34名の藩士がここに葬られました。

一里塚跡

一里塚跡

時代:江戸時代
地区:新町

江戸時代、近世西国街道が整備されたのに伴い、この場所に一里塚がつくられ、松が植えられていました。現在の標柱の場所にあった塚は、大正10年に撤去されましたが、昭和の初めまで塚だけは残っていました。

三十六歌仙絵馬(熊野神社)

三十六歌仙絵馬(熊野神社)

時代:江戸時代
地区:上市

文政8年(1825)広島藩の絵師、山野守嗣(峻峰斎)の筆によるもので、桐板に36人の歌人の肖像が描かれています。当時の藩儒・藩士らが歌詞を清書し、奉納したもので、現在も幣殿に掲げられています。

西国街道常夜燈

西国街道常夜燈

時代:江戸時代
地区:畝二丁目

西国街道に面して残るこの常夜燈は、昼夜を問わず旅人が往来する当時の街道の様子を、私たちに教えてくれます。向かい側に位置する春日神社は、街道を行く人々の目印となっていました。

永山大学の墓

永山大学の墓

時代:1623~1692
地区:石原

剣術家永山大学(信楽)は、元和9年に豊後竹田に生まれ、13歳のとき心貫流を修めました。これを後に信抜流と改め、諸国を歴遊した後、寛文2年(1662)39歳のとき広島十日市に滞留した際、その技を認められ、同6年に浅野家から奥海田村に所領を賜り、この地に隠棲しました。

貞福寺の霊泉跡

貞福寺の霊泉跡

時代:江戸時代
地区:三迫二丁目

この地には、かつて温泉が湧き出ていたと伝えられ、安永年中(1772~1780)には、近隣の村々から治療にやってくる人々が多く、広島の城下からも湯を汲み取りに来ていたほどだと言います。なぜ湯が出なくなったのかは、民話として伝承されていますが、本当のことはわかっていません。なお、境内には県下有数のモッコク(海田町天然記念物)があります。

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