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歴史(通史)

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年12月1日更新ページ番号:0000700

海田町の歴史

古代

出土した土器
出土した土器
畝観音免第一号・第二号古墳
畝観音免第一号・第二号古墳

集落の発生

この地域に人々が住みはじめたのは、近隣の遺跡の存在から考えて、約一万年前のことと思われます。
古代の海田では、海は現在よりも内陸に入り込んでいました。そのため、谷の奥や丘陵部などで貝塚や古墳など多くの遺跡が確認されています。海に近く暮らしやすい環境にあったと考えられます。
谷の奥に位置する畑谷貝塚からは、縄文時代の石のやじりや土器片が出土しています。

古墳の登場

3世紀末~7世紀にかけて、各地で盛んにつくられた古墳。海田町内や広島市安芸区などでも、各時代の古墳が数多く存在しています。
中でも、7世紀につくられた、畝観音免古墳の横穴式石室の規模は、当時の広島湾岸では最大規模で、この地域に有力な豪族が存在していたことがわかります。

中世

鎌倉時代の開田荘とその周辺
鎌倉時代の開田荘とその周辺

街の起こり

「かいた」という名が初めて記録に出るのは、平安時代の終わり頃のこと。その頃は「開田荘」と呼ばれる皇室領系の荘園でした。
当時もまだ、海岸線は現在よりも内陸部にあり、蟹原や磯田、浜といった地名にその名残がみえます。その頃のまちの中心は、現在の日下橋付近にあり、二日市と呼ばれていました。
二日市は、市場と港の機能を兼ね備えた商業のまちであるとともに、交通の要衝として戦略上の重要な拠点でもあったため、戦国時代の海田には、日浦山をはじめ、複数の城が築かれました。

近世

旧山陽道
旧山陽道(西国街道)
西国街道常夜燈
西国街道常夜燈
千葉家書院
旧千葉家住宅

二日市から海田市へ

中世の終わり、毛利氏が広島に城下町を築きはじめた頃、瀬野川の土砂で陸地化がすすんできた海田では、二日市からより河口に近い海田市へとまちの中心はうつっていきました。
猫屋や神保屋といった大商人も移住し、海田市は港と商業の集積地として次第に整備されていきました。

西国街道の整備

江戸時代に入り、近世の西国街道が整備されると、海田市は大坂と下関を結ぶ宿駅の一つとして機能を高め、さらに発展を続けていきます。
海田市には、大名や役人の宿泊に当てるため、本陣のかわりに転用された、「御茶屋」という公用施設が熊野神社西側にあり、海田公民館のあたりには「脇本陣」も設けられていました。

干拓と農業の発展

広島藩では、江戸初期から生産基盤の拡大のため、干拓事業が推進されました。
海田でも江戸時代から明治時代にかけて次々に新開地がつくられ、ほぼ現在の地形ができあがりました。
新開地では綿がさかんに生産され、特産品としてもてはやされました。

江戸期の海田の産業

江戸期の特産品として綿製品の他には、海田牡蠣が有名で、身が大きく美味であったとされています。
また小貝などの磯稼ぎも盛んで、市で売られたり近村へ行商されていました。
その他、菜種や綿実による灯油生産をはじめ、酒造りや鋳物生産などがあげられます。

近代

激動の時代へ

日本が明治・大正・昭和と激動の時期を迎えると同時に、海田のまちも様々な変革へと動き始めます。新開での産業は綿作から米作へと変化し、さらに海田ブドウという新しい特産品も生み出しました。
一方、日清・日露・第二次世界大戦と続く戦争の時代、広島と呉という軍事拠点に挟まれた海田は、鉄道敷設や軍用地の接収が行われました。
海田市町には陸軍被服支廠海田市倉庫、奥海田村では海軍第11空廠が建てられました。

山陽鉄道と呉線の開通

明治期、二つの鉄道線路の開通が、その後の海田の進路を大きく決定付けることになります。明治27年(1894)に山陽鉄道(現在の山陽本線)、明治36年(1903)に呉線が開通し、二つの線路が交わる海田市駅は、戦争物資と人員輸送の重要な拠点として機能するようになり、同時に海田市町の経済の発展にも大きな影響を及ぼしました。

現代

現在の海田町
現在の海田町

旧軍用地の返還要求運動

海田が戦後復興を遂げるためには、まず軍用地を返還してもらい、優良な企業を誘致することが不可欠でした。町民のねばり強い運動の結果、昭和30年(1955)海田市の旧軍用地は日本政府に返還されました。

新生・海田町の誕生

昭和27年(1952)奥海田村は、東海田町として町制を施行しました。
当時は同時に町村合併の機運が高まる時期でもあり、海田市町や東海田町を含め周辺の町村で様々な合併案が検討されましたが、昭和31年(1956)9月30日に、海田市町と東海田町が合併し、海田町として新たなスタートをきりました。

発展を遂げた高度成長期

旧軍用地への企業誘致活動も決して楽な道のりではありませんでしたが、様々な企業への誘致交渉の結果、昭和32年以降多くの企業の工場進出があり、以後海田は、高度成長の波に乗り、工業都市としての発展を遂げました。

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